記事

泡盛と人:東盛あいか【前編】 与那国島を舞台にした、自主映画作品『ばちらぬん』がグランプリ受賞!

お酒を愛する人

今回、ご紹介するのは、沖縄出身の東盛あいかさん。映像の世界における新しい才能を発掘するコンペティション「第43回ぴあフィルムフェスティバル」で、与那国島を題材とした自主映画作品『ばちらぬん』が、見事グランプリを獲得しました。本作品では、監督主演も務めています。61分の中で映し出されているのは、東盛さん自身が育った与那国島。スクリーンには、与那国島のリアルな生活、日常があり、島への大きな愛が映しだされています。

前編は、東盛さんの人物像と自主制作映画に関する話題。後編は、与那国島でのエピソードを深堀りし、島民と泡盛との深い関わりについて話を伺いました。

いまに繋がる大切な故郷 “ 与那国島 ”

東盛さんは、現在は関東在住ですが、6歳から中学校卒業までは、母親の故郷である与那国島に住んでいました。後に、自主映画作品『ばちらぬん』の舞台となる、大切な場所です。

「生まれは石垣島で、生まれてすぐ沖縄本島の糸満に引っ越し、6歳まで住んでいました。でも、父の仕事の都合で、母と私、兄姉は、母の地元の与那国に行くことになって。6歳から中学校を卒業する15歳まで、与那国に住んでいました。糸満にいた頃の記憶はほとんどないので、私にとっては、与那国が故郷です」。

与那国島には高校がないため、中学校卒業と同時に石垣島の高校へと進学。生活の場所は、与那国島から石垣島へと移ります。そこで、映画の世界に憧れを持つきっかけとなる出会いを果たします。

「実は、高校の時、いろいろとうまくいかなくなって学校に行けなくなって。家に引きこもって不登校気味になり、高校2年で中退しているんです。そのときから、映画を見始めるようになりました。与那国には、レンタルショップがなくてDVDを借りられなかったし、ネットもなかったから映画に触れる機会がなかった。でも、石垣だとレンタルショップがあったから、なんとなく映画を見始めたのをきっかけに、興味を持ち始めて映画を学びたいと思うようになりました。当時は、邦画を見ることが多かったです」。

大学に進学。映画学科俳優コースへ

映画の世界に興味を持ったのをきっかけに、アルバイトをしながら高校に通い、京都芸術大学(当時、京都造形芸術大学)に進学します。

「バイトをしながら通信制の高校に通って高卒認定を取り、京都芸術大学に行きました。私は、同級生(同年齢)とは1年遅れの入学。だから、入学したての頃は周りの子たちを見て、『この子たちは学年が一つ下で、一ヵ月前までは学生だったんだな』と、思ったりして。私はしばらく学生生活から離れていたから、同級生とちょっと距離感があった。でも、時間が流れて行くとともに、一歳下というのも気にならなくなっていました」。

京都芸術大学の映画学科俳優コースでは、映像についてはもちろん、作品作りにはさまざまな力が集結し、一つの作品ができていることを学びます。

「(当初は)映画学科俳優コースを卒業したあとは、俳優になることを主軸に考えていました。でも、いろんな方面から映画を学ぶようになり、俳優だけじゃない部分にも興味を持ち始めて。チームを組んで自分たちだけの力で自主制作を撮っていくなかで、美術や録音、その他のスタッフの役割を経験して、多方面から映画作りの楽しさを知りました」。

歳を重ねるにつれ大きくなる、与那国島の存在

与那国島を離れ、住む場所が変わっても、東盛さんと与那国島の距離が離れることはありませんでした。与那国島は、祖父が住んでいます。帰省しては、祖父との時間、島で生活をする人との時間を大切にしてきました。

「大学にいる間も、ときどき与那国に帰っていました。帰ると、島に住んでいるおじいちゃんやおばあちゃん、先輩方と話したりして、与那国の歴史を教えてもらっていました。与那国には、洞窟がいっぱいあるので、洞窟に詳しい島の方に話を聞いて、連れて行ってもらったこともあります。祖父に洞窟に行ったことを伝えると、『戦争のとき、ガマとして隠れていた場所だった』と、教えてくれたこともありました」。

与那国島を離れたことで芽生えたのは、島への愛。6歳から15歳まで住んだ月日は、年齢的に未熟な時期。島にあふれるものすべてが、当たり前にあるものでした。離れて外から与那国島を見ることで、どれだけ大切な場所で、島の文化、歴史、風習、生活、島の人との関係、すべてが尊いものかを気付くことができたと話します。

「15歳まで与那国にいたけど、15歳で島の良さを知るのは難しい。与那国の言葉や文化を学ぶ授業はあるけど、自分から求めて学ぶことはあまりなかった。それに、どうしても興味が島の外にいっちゃう。そばにありすぎて、島への興味がなかった。やっぱり、島の外に出ないと分からないと思います。歳を重ねるたびに気付く。島に暮らしている先輩(東盛さんより年上の島の住人)でも、県外で暮らしている人でも、『島のことについて、もっと知りたい、学んでおけばよかった』って話す人は、たくさんいますね」。

そして、大学入学後に自分をみつめなおしたとき、東盛さんにとって、与那国島は欠かせない場所だと気付きます。

「与那国で住んでいたときは当たり前すぎて、失われるとか、なくなっちゃうとか、焦燥感を感じなかった。でも、ばちらぬんを撮るため島に帰ったときもそうだけど、与那国に帰るたび、祖父の老いを感じたりして。あと、与那国の方言について自分から学ぶようになってから、島の言葉が消滅危機にあることを知って、島の人の暮らしの移り変わりを感じるようになりました。そこで、15歳まで島にいたのに、こんなにも知らないことがあったんだ、って気付いて、すごく焦燥感があった。あと、ちょっとした恐さも。そう感じたのが、(与那国島を題材にした)映画を撮りたいって思ったきっかけ。始まりでした」。

島から京都に戻れなくなった時期が作品の刺激に

東盛あいか

大学生活の月日が流れ、卒業に向けた自主制作映画を作ることに。しかし、タイミング悪く、2020年春、新型コロナウイルス感染症が流行します。企画材料を見つけるため与那国島に帰省していた時期を直撃し、与那国島から京都に戻れなくなりました。

「4年生のとき、(卒業に必要な単位を取得済みのため)ほぼ授業はなく、卒業制作だけでした。前準備として与那国に行ったら、(新型コロナウイルス感染症の流行で)島から出られなくなって、京都に戻れない時期がありました。そのとき、祖父と2人暮らしの生活をしながら島で過ごした時期が、映画作りの刺激になりました」。

与那国島から戻れず、京都にいる映画制作のメンバーとは、オンラインで企画を詰めることに。対面でのコミュニケーションができず、映画も完成させられるのかも分からない状況。不安も大きかったと話します。

「私だけ与那国。京都にいる組のみんなとは、オンラインで週に1回会議をして、準備を進めていきました。でも、私は一回企画が潰れたときに、気持ちが落ちちゃって。ミーティングに出られない時期があって、迷惑をかけたときがありました。初監督、初主演でもあったので、勝手にプレッシャーを背負ったりして……。あのときは、本当に申し訳なかったです」。

さまざまな困難にも直面しながらも、一つの作品を完成させるために力を注いだ準備期間。ただでさえプレッシャーがある一年にも関わらず、追い打ちをかけるように流行した新型コロナウイルス感染症。見通しが立てづらくなるだけではなく、準備もままならなくなります。そこから脱したきっかけは、何だったのでしょうか。映画を撮る上で、大切なことを再認識したようです。

「“ 覚悟 ” 。楽しみもあるけど、覚悟の方が強い。撮影が始まる一年前、企画書を書いている段階で、来年はいままでになく忙しくなって、追い込まれるんだろうなって覚悟したつもりでした。でも、いざ始まると余裕がなくて、やっとこさで乗り越えた感じだった。映画を作るのは体に悪いし、撮影期間中は、きついっちゃきついんですけど、ばちらぬんのときは、とくに半年ぐらいみんなに会えなくて撮影も進まない時期があったから、みんなと撮れる喜びの方が、ぎり上回ってた。だから、なんとか動けてた。キャパオーバーしてたんだろうけど、進むうちに、撮影時間がありがたいなって思えるようになって。(制作期間は)あっという間できついけど、終わってほしくないって思ってた。楽しみもあるけど、それだけじゃやっていけない。“ 覚悟 ” が必要でした」。

“ 覚悟 ” を持ってメガホンを取った『ばちらぬん』

東盛さんにとって、『ばちらぬん』のメガホンを取ったのには、特別な想いがありました。

「ばちらぬんは、監督がやりたくて撮ったわけではなく、与那国で映画を撮りたかったから。これは、大学に入ったときから思っていたことで、ほかの人に任せたくなくて自分でやるしかない、と思っていました。ばちらぬんが撮れたら、『ぴあフィルムフェスティバルに出品して、那覇市の桜坂劇場で上映できたらいいな。島でも、凱旋上映できたらな』って、思ってた。そしたら、グランプリをいただけて、桜坂での上映も叶って、思っていたことが実現できて、すごい一年でした」。

チームで全身全霊で取り組み、完成させた作品。評価をした審査員の目には、『ばちらぬん』がどのように見えていたのでしょうか。グランプリを受賞できた要因について聞いてみました。

「映画としては、客観的に見たらすごい未熟な作品で。私の未熟さ、青さがばちらぬんに出てる。映画の形としては、たぶんよちよち歩き。それでも、賞ををいただけたのは、そのときの私にしか撮れなかった映画だったからだろうな、って思います。このとき、この場所で、私にしか撮れなかったもの。与那国を画面に映したときの生命力の強さだったり、私自身が最初にばちらぬんを撮りたくなった焦燥感、怖さが、ばちらぬんに反映できたんだと思います。そこが伝わってくれて、未熟ながらも、そのパワーが作品に映し出されていたのかなって思います」。

『ばちらぬん』は、東盛さんにとって、どのような作品なのでしょうか。

「ばちらぬんは、ほかの人には撮れない、私にしか撮れないものでした。自分の分身みたいな感じ。だからこそ、一番最初に組のみんなに脚本渡したときは、吐きそうなぐらい、自分の内臓をさらけ出しているような感じでした。すっごい恥ずかしかったというか……、初めての感覚だった。なんだろう、自分の内側を全部見せてるような。モノづくりって、苦しいなって。自分の内側を出して作っていかないといけない。誰かに作れるようなものを作ってもしょうがないし、誰かに作れるものは私が作る意味がないので。自分を掘り下げていくこと、与那国を掘り下げていくことが、今後に繋がっていくと思っています」。

与那国島の発信を続けながら、クリエイティブを突き詰める

今後も、自分を掘り下げていくこと、与那国を掘り下げていくと話す、東盛さん。与那国島に関するなかでも、同じ沖縄でも、沖縄本島とは異なる島言葉である与那国語の習得に力を入れたいそうです。

「まだ、私の知らない与那国があるし、学びたいことも多い。与那国語も勉強中なんですけど、話せるようになりたい。(与那国語を話せる)おじいちゃん、おばあちゃんたち、母語話者として話す方々が、生きてる間に学ばなければいけない時間制限もあるので、その人たちから聞ける言葉、音として受け取れるうちに、学びたい」。

今後は、どのような予定があるのでしょう。そして、東盛さん自身、どのようにありたいと思っているのでしょうか。

「『ばちらぬん』ではコロナで諦めた部分もあったので、またいつか与那国で映画を撮ることに挑戦したいです。そのほかは、与那国を撮ってほしいって頼まれている案件があったりするので、依頼のあった映像作りをやっていきたいなと思います。今後も、関東と沖縄、与那国を行ったり来たりしながら、俳優業と映像、どちらのクリエイティブもやって行きたい。与那国を深堀りすることがクリエイティブに繋がるから、どっちも一緒に進んでいくんだろうなって思いますね。与那国について、外に発信していくことを続けられたら、と思います」。

4月30日(土)から桜坂劇場で上映決定

夢を突き詰めながら、これからも与那国島とともに歩くと話す東盛さんは、芯がとてもしっかりしていて、ヒトとしての魅力があふれています。いちばんは、与那国島を通して育まれたものだと思いますが、そのほかに、自分という人間をしっかり見つめ、さらけ出してきた結果が、心に響く作品に繋がっているのだと思います。

事実、東盛さんが作り出した『ばちらぬん』に映る与那国島に惹かれ、実際に与那国島へと足を運んだ視聴者の方もいたようです。映画制作チーム一丸となり、島に住む人の協力も得て作り上げた『ばちらぬん』が、確実に心に届いている証。東盛さんが、『(ばちらぬんが)与那国島を知ってもらえるきっかけになれたことが、すごく嬉しかったです』と、柔らかな笑顔で話す表情がとても印象的でした。

東盛あいかさんが監督・主演を務めた自主映画作品『ばちらぬん』は2022年5月7日から全国で順次公開となり、全国上映に先駆けて4月30日(土)から、那覇市にある「桜坂劇場」にて上映予定です。沖縄本島在住の方、また、旅行で沖縄に来られる際には、ぜひ、桜坂劇場へ。詳細は、桜坂劇場の公式ホームページをご覧ください。

<東盛あいかさんProfile>

1997年生まれ。沖縄県出身。京都芸術大学映画学科俳優コース卒。6歳~中学生のとき、与那国島で過ごす。俳優、監督、クリエイター。新人映画監督を発掘するコンペティション「第43回ぴあフィルムフェスティバル」で、与那国島を題材とした自主映画作品『ばちらぬん』がグランプリを受賞。

<ばちらぬんPR・YouTube動画>